昭和54年6月18日朝の御理解
御理解第23節
氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると、信心にならん。神に好かれるようにせよ。
昨夜は合楽会でございましたが、ううん、西岡先生が、あの、私がこの頃から何かの会合の時に、めいめいの、おおー家庭に、ええー合楽理念の実験実証者、はたらしめて下さい。又それが焦点であるならば、ああー合楽理念実験実証、焦点であらせて下さいというように、一家中が信心をさせて頂いておるならば、一家中の者が見やすい所に、どうぞ合楽理念実験実証、家族からしめて下さい、書いといて、それを朝から、言うならば、実験し、実証し、そして、ううん、一家中の者がその実証者であ、実証して行く事の喜びを分かり合うようなふうにして置いてもらおうかと言ったような話をしておりましたから、先生が帰ってから、まあいくらかもう皆さんに、ええー書いて渡しておられるらしいんです。昨日もその書いておられるのを、おおー持って見えて、合楽会の方達、皆、夜配っておられました。昨日合楽の方達の体験発表聞かせて頂きましたら、もうそれをはらずくっとも、もう日々合楽理念の実験実証、もう昨日一日の事を皆さん話されておるんです。もう素晴らしいお話をされるのにもう驚きました。もう合楽理念の実験をしよるんだけど、そういう実証はあんまり出てこないというようなお話でした。
ええー一番その中で、ううんまあ有り難いなと思ってるとは、ううんそこの中村さんが、「今日は、ううん、そこのおとなりの何とかさん、おとなりの何とか言いますね、あのーあそこ何て言うかね?政昭さん知らんかな?あっ、くえ、くえさんじゃなかった、ああーもういっつも、そのまるしょうのあれで、もういつも、あちらからお叱りを頂いておるんです。電話がぜんぜんかかってきてから、もう止めろって。っん?あっ?ああーその木さんっていうかぁ。あのーあちらの奥さんが、ううん、その中村さん所に見えてから、もう私、もうどうにも思うたっちゃいつも主人がこの合楽教会にやかましいと言いかけきらんと。けれどもちょいと私、あんたげんまで(?)言うて、出てみえてから、お金を2千円持ってみえてね、そして、あのー昨日合楽の、あのー先生の方達が、そこのみぞを奇麗にあのーお掃除をして下さっておる。もう私はもう、本当にもう相すまんで、相すまんで、もうジュースなんと買うて頂いてもろおうと思うて、あのーあんた方にお願いに来たと言うてお礼にみえたと言う事なんですよ。
けど私は、昨日そのーここの修行性の先生方が、そのーお掃除をしたかと思うておりましたら、昨日はまるしょうの幹部の方達が全部、あそこ奇麗にお掃除したそうですがね。本当にもう隣近所におって、隣から喧しい言われるような事では仲ようする事になりませんもんね。けれども何故仲よう出来ないのかと言うと、お互いの理解し合うものがないからだと思うですよね。何かの、その調子と言うか、何かの機会に理解が出来ると、そこから仲ようなる。ああーそげなん事じゃったの、そげなん事の、と言うような、私は神と仲ようするという事はね、誰、隣近所とも仲ようするという事に繋がると思うんですよね。と言うてこちらから、その( ? )するとか、気げんとってとかいうのじゃなくて、お互いが理解しおうてからのもの、だからどういう事があっても、だから理解しおうておるのですから、これは夫婦でもそうです。都合良く時の、だけの夫婦じゃない。都合の悪い時でも、やはり理解しおうておらなければ、仲よう出来ませんよね。
合楽理念の実験実証の焦点として、会社として、家庭として、ね、例えばそういう人のソロウガンのような信心の一つの窓と言ったようなものを書いて貼ってある。信心のない人が、「こりゃあ何の?これは何っちいう意味の?」っと聞かれた時に、もしそれが焦点であるとするなら、ね、もうとにかくお客さんと仲ようするという意味があるんですよ。と答えたらいいと思うんです。自分方だけが儲かりたりすれば良いじゃなくてお客さんに喜んでもらおうという事、この信心、この理念を私共の店は、もう持っとうといたしております、ね。お客さんと、言うならば、そのお店とが仲ようする商売をしたいと思います。だから、という事をもし聞かれたら、それをそういう風に説明してあげたら、「ほおーそげなん事の、そげなんこつ書いちゃるの」と言うて、又、言うならば、「そげけん少し、あんた方は違うと思いよった」というようなところから理解し合えるお得意さんと、ね、言うならば、焦点という事になってくれば、いよいよ良いお得意さんにもなって頂くだろう、又そのお得意さんの為に喜んでもらう放心も又しよいという事になります。ね。
お隣りとの間に、言うなら本当に迷惑なもんだと思うんです、ね。もうどんこん、んー(シグナく?)例えば、シグナく?なんかなさる時に、もう、どん、あのー、んーガッチャン、ガッチャン言わせますからね。もう、それ本当に内におっても喧しいくらいですから。もうその下じゃから、皆さんとが当たり前とこう思うんです。と言うて、まあーそれを中止するわけもいけない、ね。けれどもそういう、なら合楽の事情を本当に知って下さったら、それは、言うなら有難い事ですから、「いっちょ辛抱しなしやなかたいね」という事になろうけれども、理解が出来ていないから。そのきっかけともなるものはです、言うならば、ね、昨日のまるしょうが雨みぞそお掃除をさせて頂いたという事がです、一つのきっかけになって、ね、もう主人がいつも教会に喧しい言うから、もう教会に行かれんからあんた方からどうぞ、あの、お掃除して下さった方達にジュースの一つ買うて差し上げて下さいと言うて、まあ中村さんとこにみえたという事を聞いてね、ああーこういう風にして隣近所が仲ようなるその言うならば、例えばね、言うならまあ無語言うたりしたりしてから仲ようなるじゃ詰まらんです。理解が出来合ってからも仲よう頂かなんダメです。なしかてそんなん良い事ばーっかりないからです、どんなんな悪口であっても、ああーね、やっぱし何かよくせきの事であろうという事に理解し合うと、そこから言うなら仲ようするという事になって来るのです。皆さん、これ一つ神様と私共の上の事も、それを、お願いですから考えられたらいいのです、ね。
合楽理念はとにかくそれが焦点であるならば、合楽、合楽し合うという事は、神様と、言うなら人間、天使と、そのお店と、買い物に行きたござろうけどそん人が仲ようする。そこからね、もう理屈でない良いものが生まれて来る、ね。ただ、もうあそこは。、もうちょいとこすい、品物の安かばってん悪かとか、ね。品物の安かばってん、もうその親切が無いとか言ったような事じゃなくてです、ね、本当にお客さんに喜んで頂く事をもっとうにしておる。その合楽理念を持って足腰を洗わせて頂いておるという、あの石はそういう石なんだから、あの石はそういう信心をしなさるから他所と違う風になるんだというように理解が出来たら、もういよいよ交じり合いのないお得意さん、お客さんになって下さるだろうと思われるように、ね。私共が神と仲ようする信心ぞという事は、ね、神様と私共が理解しあえる仲にならなければ仲良うなるという事じゃない。(?)おかげを受けた時だけはもうそれこそ金光様と仲良うならんごという、親先生仲うならんごと例えば言うておっても、それが反対の事になってきたりすると、そうやって又、言わいる反対の事になるような事では、どんなに仲良うしよるようにあってもそれは仲がいいという事にはならんのです。これは神様にご都合のある事に違いがないと、どういう場合にあってもそういう頂き方がすっきりと出来るようになるという所に信心の稽古がある訳です。
神と仲良うする信心、これ親とて、親と子でもそうです、ね。理解し合えないところに親子の断絶といったような事にもなりかえないのです、ね。夫婦でもそうです、ね。隣近所のお付き合いの上でもそうです、ね。私、信心させて頂いておる者は、本当に例えばふんにこの腹を立ちあって見せたごうたるといったようなあり難いものを持っておっても、ね、持っておるだけじゃ通用しない、ね。それが示されたり、現されたりする時にです、それも分からせようとじゃなくて、なら昨日まる少は、皆と仲良うなる為にそういう事思うておった訳じゃないでしょう、ね。そういう事がね、言うならば、理解しあえる一つの元になってそれから色々と良い事、悪い事につけてです、ね、ああーあれだから、やはり、相手の事は良くせきな事であろうと理解し合える。神様と人間氏子の場合でもそうです。そこで、もういよいよ持って神意を深く広く悟らなければ、分からせてもらわなければ本当の神の理解は出来ません、ね。
又、神様に私を認めてもらおうという事でもです、ね、あの氏子はまっ、間違いないと。ね、だからあの氏子は間違いないと、言うならば、ね、神様に認められるという事は、もう完璧に神様のようにならなきゃならんという事じゃないです、ね。もう確かに私共はこの世に魂を清めにきておるんだと。もう全ての事をどうして魂を清める事に、または改まっていく事に、磨く事に精進させて頂くという事が信心だと分かって、出来るできんはどっとして、それに取り組んでおるという姿に神様は、私は認めて下さる事になると思うですね。もし例えば失敗をしてもです、ああー又失敗をしたと言うても、思うてもです、ね、そこに素直に詫びる気になって、又そこから改めて、言うなら信心を頂き直して行こうとするそういう姿勢に神様は認めて下さる事になる。又ご理解を頂けば頂くほど、じっ、それこそじっ、ね、御教えの実験実証をさせて頂くにしたがってです、神様の心が深く、広く分かる。ねっ、氏子と神様とが理解し合うところから始めて仲良うする信心というのが生まれる。言わいる、仲良うする信心とは、合楽し合う信心である。そこから生まれてくるおかげこそ本当のおかげだという事になります。
昨日は、ううん、壮年、今度壮年大会のスタッフの方達の会合があっておりました。それで午後から急に思い立って、ええー北九州の方の、ううんーもじみなと?教会か、おおー牟田という先生がおられます。此の方は、まあー、まあ素晴らしい先生だそうです。私もまだお目にかかった事がないんですけども、秋永先生が、ああー久留米に講演に見えた時にそれ、お話を聞いて、ええーとても良い先生だったというお話をちらっと聞いておりましたし、ここにも、ううー、もうとにかく皆そうでしょうけれども、もう合楽の事を、もうとにかく、もう悪い事ばっかり聞いておられたらしいんですけども、ごうど?というひとつに行かれた時に、ここの御理解感はしよる店見せられて、あそこで作ったんですからね。それで、あのーそれを送ってほしいという事から送って差し上げるようになり、ここで、ええー印刷される物、もう色んなおかげの泉とか、新聞、何でも良いからここで書かれたものが、あのー強引になった物があるなら、なんでも送ってくれと言うご縁、手紙を入れてそれ以来、まあ色々送って差し上げる。先日から、あのー天の心、地の心読まれて、もう全く素晴らしいという、あの御理解を4~5日前に聞いてもらいましたように、私はあの話を聞いてもらう時に、ふっと私が感じた事でしたけれども、ほんに、本当壮年会の、まあ、あのー講師は、牟田先生にお願いしたらどうだろうかと、秋永先生が知っておるけん、秋永先生に聞いてから、一回、そんなら一遍そうしたらよかろうという風に思うておったんです。
そしたら昨日、その話が出てから、もうあの先生なら良かぞと、そんならとにかく皆でご相談に行こうじゃないかと言うて、んー水岡?先生がまだ学院におる自分に(?)があの、本部に勤めておられた、よく知っておるから電話掛けたと。そして私に教則されて、今日おりますからと言うので、ええーここから4人の先生が、あの、総代さん方と、ああー今度、ええーいい、委員長で、今度あります壮年会の佐田さんと交えて、あのー参ります。っで昨日も、丁度7時頃でしたか、帰って見えましてお話を聞きましたんですけれども、もう大変感激されて、喜ばれて、もうとにかく合楽の物を読ませて頂いて、合楽に対する思いというものが、もう一変してしまった。そして、私も合楽の先生のように、本当にもう、よそに出て行く御用というような事はもう止めようと思っておると、何か、いよいよ深いお話もされてです、もう、まあ、私で良かったらおかげ頂くという妾宅を終えて、まあ帰って来ている訳です。そして、ううん、そのー出来るなら自分所の娘たちが非常に、その合楽を、に、言うならあこがれておる、だからその娘たち二人も連れていってよかろうかと言ったような事だったそうです。もうそれこそ大歓迎ですと言うて、まあ帰って来たというお話をしておりましたけれども、それこそ一面識もない、その牟田先生が、ここの読み物を読んで理解が出来ておったから事になって来たんです。
こう気張る物も何にもない。もうそれこそ、もう、あのー言うならば理解し合うという事はそういう事になる。あるいは、例えばこう歓心も来たように、こうーしてと言ったようなものでなくてです、例えば話の、ううー後先にです、そういう、なら今度あちらの壮年会の方達の話を聞いて頂くようにあったっては、なら娘も一緒に合同してもよかろうかというような話は、とても理解し合えなければ出来る事じゃなかですね。4人の総代さん達の、言うならば模様やら、言うなら話やらを聞いて、いよいよ説き合われたものがあるからこそ、そういう働きになってきたんですよね。ねっ、これからおそらく、いよいよ合楽し合える事になるでしょう。
私は3~4日前に、あのーお知らせを頂いて、こう階段の曲った階段があります所をね、あのーお相撲さんの高見山が登っておる所を頂いたんです。そして、こう曲がっておる上から光をそこへ、こう、こう、ううん、こう、光がぱあっーと指してくる所を頂いた、ね。だから高見合うという事は、結局二色のという事だと思うのですね。相撲取りという事は力持ちという事です。ですから二色の力持ちが合楽の信心を尋ねて求めて登ってくるのと、登ってくる道を明るくしたおってやれという事であると私は思うておりましたが、もう、言うなら牟田先生が、なら今度合楽との関係を作られ、出来るという事になればこれはもう異色の力持ちでしょうね、この先生は、ね。皆さんもご本部で頂いてこられたパンフレットの全てはこの牟田先生が作られると言われて下ります、ね。それだけではない、色んな関係が、非常に関係を深く持っておられる方ですけれども、合楽に歓心をよせらせになさった、合楽のご本も読ませてもらうようになさった、おかげの泉を読まれるようになった、これは世間で言うておる、なら悪めは高いけれども、これは誤解が元になっておるぞという事を分かって来られた。そして自分も分かられるようになった。どうか一遍合楽には行きたい、合楽の親先生に一遍お目にかかりたいと思うておりましたと言われたそうです、ね。
誤解が解けてくる。するとそういう、なら仲が生まれてくる訳です。これはだから神様と私共の間でも同じだという事です。それにはまず、神様に、ね、認めておらわなきゃならんと同時に神様の心を深く広く分からんとです、おかげを頂いて自分の都合のよか時だけは仲良うしよるごたるばってん、それの反対の時には、もうぱっと、それこそ一緒に向けて向こうさに行ってしまうと言ったような事では仲良いとは言えんのです、ね。私、この御教えなんかは、もう本当に教祖にして説かれる御教えだと思うのです。こんな御教えが(?)も実勢かにあろうとも思いません。神と仲ようする信心ぞなんて言うのは、ね。神と仲ようする信心ぞと、ね。神と合楽し合う信心ぞと。そこから生み出されてくるおかげを私は本当のおかげだと言う風に思いますね。どうぞ。